谷口製土所

花坂陶石と若杉窯

加賀藩初の量産窯の誕生

九谷焼の窯場は現在、金沢、能美、江沼の3エリアに大きく分けられる。歴史の古さでいえば古九谷の発祥の地、九谷村のあった江沼地域が一番だが、 1807 年、12代加賀藩主・前田斉広が九谷再興の起点としたのは、金沢・卯辰山にあった春日山窯であった。それまで他藩に頼っていた食器産業の育成と、 藩金流 出、および失業対策がその目的であった。

 

そんな中、京都から招かれたのが京焼きの文人画家・青木木米で、彼に同行してきたのが、島原出身の陶工・本多貞吉であった。木米は呉須赤絵写しの 日用雑器を中心に作り始めるが、藩と方針が合わず、事業半ばに京へ戻ることになる。一方、加賀に残った貞吉は、 能美地域で良質の花坂陶石を発見し、若杉(1811〜1875)に繁栄をもたらすことになる。1816年には藩営の「若杉陶器所」も置かれ、貞吉 はその職 長に任ぜられた。盛時には信楽、京都、平戸などから集めた陶工が50人以上、窯場の広さも4千坪を上回る規模を誇ったが、1836年の陶器所の火 災後、隣村の八幡への移転、新興の小野窯が開かれたこと、量産化による品質の低下、金沢城炎上に伴う藩財政のひっ迫など、様々な要因が重なり次第 にその勢いを失っていった。

 

若杉窯は1875年に廃窯となるが、勇次郎の赤絵で知られた加賀伊万里、九谷庄三の彩色金欄手など様々な色絵技法を後世に伝え、加賀藩で最初に食 器の量産化に成功した窯場として、今も歴史にその名を刻んでいる。


石碑

石碑

若杉町に建つ本多貞吉の慰霊碑。この碑の前で例年5月初旬に慰霊祭が開催される。なお貞吉は能美市寺井町の狭野神社でも陶祖として祀られている。

鋳型

鋳型

平成14年、八幡に設置された登窯展示館内に陳列された鋳型。若杉陶器所は隣の八幡に移転後、若杉窯とたもとを分かち、いつしか食器類よりも「九谷八幡の置き物」で知られるようになり、それは現在まで続いている。

登り窯

登り窯

上記の展示館内に残る連房式登窯。この窯は第二次大戦後も数年間は、使われていたという。全長約11m、幅約3m。傾斜面に階段状に作られ、最下層でおこした炎が順に上階の二つの焼成室に送られていく。

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